戦士は語る

で、それと少し関係のある話。先日の記事で、マルクスの批判的継承なんて大雑把な紋切り型を言ったけれど、その意味するところがよくわからなくなってしまった。それというのも、発表のためにイスラムを中心とした現代の暴力についての文献を読み漁っていたら、革命を誰も信じなくなってしまった理由がわかったような気がしたからだ。イスラム主義の世界をアラブに打ち立てるということが不可能というだけでなく、その種のあらゆる試みが不可能になった。単純な理由で、それは暴力の非対称性ということ。どれだけの人々が単一の大儀を信じたとしても、秩序の転覆には暴力が不可欠である。しかし、そのちんけな暴力は、秩序がそれを排除する正当な理由を与えてしまうだけだ。よって、生産力と生産関係が「矛盾」することはない。言い換えれば、現状の秩序と社会関係の齟齬は「現実」として承認するほかない。たとえ違和を感じたとしても、それを転覆しようとすることは、狂気の沙汰以外の何ものでもなくなる。現実と理念との間の緊張関係も解消され、理念は現実によって書き換えられる。(憲法の改正もその延長上にあるのではないか)
現実主義か、然らずんば狂気か。そのような状況の中で、人文学は権威を主張するオタクとなり、思想は死に絶える。批判的継承も何もない。革命に代えて「抵抗」と言ってもほとんど同じことだ。もちろん、転覆を目指すことは狂気かもしれないが、それに棹さすことはゆるされてもよいだろう。だから「オルタナティブを提示しろ」などという文句には耳を貸さず(だって不可能だし)、ひたすら文句と罵倒をたれることが、最も生産的なのかもしれない。