題名のセンス

今学期の大学では、ルソーを中心に扱った。本当はもっとマルクスに時間を割くつもりだったのだが、調子に乗って喋っているうちにそんな余裕がなくなってしまった。実は学内に右翼の学生が潜んでいて、ぼこぼこにされたりしたらどうしようなんて思っていたが、そんなことは起こらなかった。
今回の試験は、予め何を書いてくるか考えておくように指示をした。その場で課題を出して書かせても大したものは出来上がらないし、知識を問うているわけでもない。考えるまでもなく、そういった形での試験は、ものすごく非哲学的だ。そんなわけで、参考文献を読んできてもいいし、ネットで調べてしまってもいいから、とにかくいろいろ考えてきてちょうだいと言っておいた。もちろん、他人の見解を参照するときにはきちんと典拠を示すようにとも言って。講義内で配布したものと、自分の手書きのメモなら何でも持ち込みOK。ただし答案を完成させてきてはダメ、ということにして。
結果としては一般教養の授業とは信じられないくらいよくできた答案がいくつかあった。俺は学部生の頃こんなにルソーを理解できていなかったよというのもあった。みなさん大変立派。
さて、試験に関する指示はもう一点あった。それは必ず題名をつけろ、というものだ。主題がはっきりするし、問いを立てることにもなるし、議論の全体に一貫性をもたせるのにも役立つかもしれない。しかし、結果としてそれ以上におもしろかったのは、題名をつけるセンスだ。特におもしろかった題名は二つ。一つ目は「野生人批判と文明人として生きる自分」。ルソーについての予備知識がまったくない人がこれを見たらきっとびっくりするだろうなあ。研究者だったら「ルソーにおける野生人批判と文明人のうんちゃら」という題名になるところだろう。つまらんですよね。「文明人として生きる自分」ってのも、何だか18世紀っぽい気がする。二つ目は「現代の奴隷が『社会契約論』から学ぶ態度」。いいぜ。わくわくしますよね。何を学ぶのかしら。
どちらの題名をつけた学生も、イマドキの若者ではない。どちらかというと隅っこに追いやられがちだと思う。個人的には、彼らにこそ言葉を発してもらいたい。おもしろいじゃないですか。