体力

研究で得たものを改めて考えてみると、むつかしい本を読めるようになったということ以外には何もないということに気づかされる。げんなりする現実だ。いったい何をやっておったのだろう。できるようになったのがこれだけなのだから、もちろんまだ何もやっていないことになる。よくわからない自己規制を続けた結果、つまらない論文しか書けなくなってしまった。いいかげんにもう終わりにしないと。
学問という形式が、生きることにとっても哲学にとっても、実に小さな一領域であることを強く感じるようになってしまってから、何か、どこから手をつけてよいのやらわからないような状態になってしまった。対象領域を限定することで、その限定された小さな領域で正確な知を生産する。そのこと自体の大切さはよく理解しているし、その限定を無視しながら学問を装う言説のくそくだらなさもわかってはいるし、その種の論文を読むと徹底的にこき下ろすことにしている。それでも禁欲が過ぎると頭がおかしくなりそうになる。限定された小さな領域のその外側はどうするんだよ、ということばかりが気になってしまう。だいたいおもしろいことというのは、学問的な正確さとは無関係なことが多い。このままでは本当に修業時代のままで死んでしまう。かといって修行を放棄したら何もやっていないことになる。困ったもんだ。
この妙な禁欲状態と長きにわたる求職状態が、俺の場合は強く関連している。とりあえず食っていけているんだから、そんなことは気にしなければいいんだけど。しかしその食っていけている状態というのがなかなかしんどい。いまはとにかく体力がほしい。体力増強が今年の課題ですね。

洗濯機

洗濯機を買った。これまでは例によって、一人暮らしを始めるときに買ったものを使っていた。いつだったか分厚い毛布を無理矢理に押し込んで洗おうとして「ばきっ」という音がして以来、ずっと異音がし続けていた。内槽がぐらぐらしていたんだろうな。とりあえずぐるぐる回ることだし、そのまま使っていた。
問題は音だけではなく、いろいろ汚れていたこともある。かつて住んでいたアパートでは、台所に洗濯機置き場があったのだが、その台所の構造が少し変わっていた。通常はガスコンロの真上に設置されるはずの換気扇が、なぜか1メートル以上離れた背後に位置していたのである。面倒で生姜焼きばかり作っていた時期は、毎日のように蒸発した油が台所を横切っていたわけである。おかげでいつも台所はべたべただった。迂闊だったのは、料理をするときによく洗濯機の蓋を閉め忘れていたことである。なるべくカビが生えてほしくなかったので、洗濯をした後、蓋を開けて乾かしておくようにしていたのだが(効果のほどは不明)、料理をするときに閉め忘れていたのだ。おかげでよく中身がべたべたになっていた。洗濯槽は服と一緒に洗ってしまっていたけれど、水がたまらない部分は、油に後からこびりついた埃で黒くなっていた。すでに洗濯物には影響なかったと思うけど、なんか気持ち悪い。妻は気にならなかったのだろうか。見たくないものは見えなくなるというのは、人間のよいところだ。
というわけで、新しいのを買った。今までは4.2キロのサイズだったのが、一気に8キロまでいけるようになった。そのわりにはコンパクトで、洗濯機置き場にも余裕をもって収まった。外槽と内槽の間のカビが洗濯物の中に紛れ込まないように、内槽に穴が開いていない。清潔だ。そしてデザインがすてき。なぜか「未来都市」という言葉が思い浮かぶ。なんだか立派になっちゃって、と言いたくなる。電気屋が帰ってから即座に使ってみたけれど、よい。今までは、たぶん洗剤の混ざった水がぱちゃぱちゃしていただけだったようだ。これまで柔軟剤の効果をまったく認識できなかったのは、洗濯機のせいだったらしい。
ふと我に帰ったけれど、無意味な文章を情熱的に書いてしまうというのは、きっとブログの特性なんでしょうね。何の情報もない。せめてどの商品だったのかくらいは挙げておかねば。

いや、ふつうかな? 10年で電化製品の製品はずいぶん向上するんですねえ。しかしプラズマクラスターってのは何なのでしょう。ちょっとびびってます。

機会原因論

この前、現代文の授業の折りに、「子供を作る」という表現には何となく違和感がある、「子供ができる」と言ったほうが実感に即しているような気がするという話をした。前者は、何か別の人格をもった別の個体が誕生するということを忘れていて、一人の人間を所有物のように思い為すような言葉であるように感じられるからだ。いったいどんな授業をしているのだろう。確か生の根源的な受動性が、という種類の文章を解説していたのだと思う。おもしろかったのは、一人の女子生徒が、「作る」という表現に気持ち悪さを感じると言っていたことだ。もう少し突っ込んでみたらおもしろい話にもなったのかもしれないけれど、教室という場所の制約上、そうもいかなかった。女性と出産という話題は、身体感覚と社会環境が交叉するところで成り立つものだから、何を考えているのかというところを少し聞いてみたい。とりあえず言っておきたいのは、だからといって安易にできちゃった婚はしないほうがいいのではなかろうか、ということだ。
さて、哲学史を勉強していると、実感を伴った理解の及ばない事柄が多々あることに気づく。もちろん、実感を伴ってしまってよいのかどうかわからない種類の経験も多いのは確かだけれど。それだけに、講義で学生に解説をしていても、そのような事柄などけっして理解したくないという、強い拒絶の態度に出会うことがある。ほとんど狂気の世界ですからね。自分の説明能力の不足を脇によけておけば、拒絶の態度も致し方ないのかもしれない。しかしその中でも自分にとって最も摩訶不思議だったのは、マルブランシュの「機会原因論」の概念だ。いまもってどのようなものなのか、自分には明確に説明することができないし、講義で取り上げることも生涯ないとは思う。ただ、妻が妊娠したことで、何となく感覚的に理解できるようになった気がする。つまり、性交と妊娠の間の関係は機会原因論的である、ということだ。それは因果的なものとしては理解することができない。しかし性交なくして妊娠はない。だが、我々とは別の個体を、我々が制作したわけではない……。
そんなこんなで、摩訶不思議な概念も、実は生活実感の中から生まれたのではなかろうかと、妄想したわけです。自分にはどうやら研究者としての才能が欠けているようだ。

不思議

今年は五月に赤子が生まれることになっている。日ごとに大きくなってきているのが、腹の中で動く様子から、文字どおり手に取るようにしてわかる。最初は「ぽこんぽこん」という動きだったのが、いまでは「ぼこっ」やら「ぐいーん」やらがメインになっている。すごい。手なのか足なのか、尻なのか。エコーで見る動きは、もはや人間そのものである。骨もしっかりしてますねえ。
先日は性別がわかった。ちょうど胎児の股の間を下から見上げるような角度で、俺はそんな場所をそんなアングルで撮影されたことはない。俺、妻、医者の三人で、股の間をしげしげと見つめる。子供というのは無防備なものなのですな。守ってさしあげねば。
ちなみに男の子です。棒も袋も見間違えようがない。エコーで見る顔の骨格は、俺そっくり。少し下を向いているところが写っていたのだが、俺が同じ姿勢をすると、形がまったく同じだった。妻の骨格とはまったくちがう。頭の幅が、眉あたりの幅よりも遙かに大きい。きっと帽子には困ることだろう。
自分に似た(いまのところは骨格だけ)少年が生まれてくるというのは、とても不思議。うれしいというのではなく、ものすごく不思議。妻が不思議がっていたのは、「女の人からも男の子が生まれるんだねー」ということだそうです。確かにね。

朝の商売

今日の日経夕刊の一面に次のような記事が載っていた。

 

午前7時半、まだ人通りも少ない東京・八重洲のオフィス街に女性12人が集まってきた。会議室のテーブルに海や山、犬や猫などいろいろな写真やイラストの絵はがきが無造作に150枚ほど置いてある。
 「何かひかれる、そんな気軽な感じで選んでください」。講師が呼びかけると、参加者は絵はがきをじっくり眺め、手に取る。「その絵の何が自分にとって大切なのでしょうか」と講師の尋ねる声が重なる。
(中略)絵はがきを選んだあと、参加者が輪になって思ったこと、感じたことを語りあった。太陽の色とりどりのイラストが気に入ったという会社員Aさんは「いろんなことに興味がある自分の性格が表れたのかな」と話す。「自分と向き合う作業をすると、なぜかほっとする。普段は仕事も忙しくて余裕がないから」(後略)

ちょいと待て。たとえばあれかい、「この犬の左耳が少し傾いているのが何だか愛おしいっていうか、私の中にあるやさしい心に触れてくるみたい」とか答えるのかい。だいたい「その絵の何が自分にとって大切なのでしょうか」という問いは意味を成しているのだろうか。「お前気軽に選べと言ったよな?」というのが正しい返答であるような気がする。あるいは「あまえ阿呆?」ってのが。これ、はやりの「朝活」の括りで紹介されているけれど、明らかに病んだ心を再生産するためだけの場所でしょう。講座名は「ボヌール」、フランス語で幸せ。それはないでしょ…。まともな精神状態でいたら、けっして近づいてはいけない場所だと判断しそうなものだが。運営しているのはカウンセリング会社。そんなものが存在するんですねえ。
自己肯定感は生きていくうえで必要なのだろう。しかし「病んでしまっている自分」を肯定してもいいのは、その病んでいる状態を脱するための過程としてのみなのではないだろうか。「病んでいること」そのものを肯定して、そこに留まることに心地よさを感じてしまうってのはどうなのだろう。「いろんなことに興味がある自分の性格が表れたのかな」「自分と向き合う作業をすると、なぜかほっとする」ってのは、さ。会社ですからね。病んでいることに心地よさを感じてくれて、しかも写真めくりをするために金を払ってくれるような人を再生産することが必要なのでしょう。しかしそれを「朝活」として紹介する記者はさあ…。
記事には女性たちが写真を選んでいる姿を撮影した写真が掲載されている。もしも自分を見つめたいのだったら、太陽のイラストなんかではなく、自分の異様な姿が写されたこの写真をこそ選ぶべきだろう。
言っておきますけれど、あくまでも主観的な感想ですよ。

旅行その3


こちらは海から見た、泊まった部屋のある建物。グランドハイアットです。バリ島の建物は四階建てくらいまでのものしかなく、横よりも縦のほうが長い建造物の多い東京で暮らしている身としては、広々とした印象を受けてよかった。できることなら縦長の建物には住みたくないと思って来たけれど、考えてみると、いまの住まいは生まれてはじめての縦長だ。

クラブラウンジなる場所では、朝から晩までコーヒーやらいろいろなお茶やらを無料で飲ませてくれる。日に何度も利用してしまった。朝ごはんもここで食べられる。夕方にはいろいろとお酒を飲ませてくれる。いいですね、無料ってのは。豊かな気持ちになれる。壁がなくて、屋根と柱のみ。喫煙席も広々としていて、これまでで最もおいしく煙草を吸える場所だったような気がする。泊まった部屋もバルコニーに灰皿があって、海を見ながら喫煙。どうやらバリ島では、法律で、ホテルやレストランの室内では禁煙としたらしい。しかし、あれだけ快適な場所なら、外で吸ったほうが断然よい。

ジントニック。写真撮影の練習。

旅行その2


旅行で最初の驚いたのは、日暮里駅がきれいになっていたこと。京成線のホームがまったく変わってぴかぴかになっていた。スカイアクセス線を走るスカイライナー。覚えにくい。帰りにどの切符を買えばよいのか迷った。以前は特急券をけちって、快速だか何だかで成田まで行った。早く着いて本当に快適。これなら羽田を国際線にしなくても私としては構わない。



ホテルの敷地内にはけっこう生き物がいた。いちばん上がハスの上に立つ鳥。最初は置物かと思った。次はヘビではなくトカゲ。現地の人(ホテルの従業員だけか?)にとっては珍しくも何ともない。子供たちは大騒ぎ。最後は池の魚を狙いながら、とうとう最終日まで一匹たりとも捕えている姿を見せなかった鳥。ほとんど水の中にも入っていない。そっくりな二羽がケンカをしていた。(たぶん続く)